【禅語】東山水上行とは|意味・由来・原典・現代語訳

掛軸の禅語
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禅語「東山水上行とうざんすいじょうこう」の意味、由来、現代語訳を解説しています。

「東山水上行」の文字は茶道の掛軸としてよく見られる禅語です。

原典は『雲門公録』にありますが、『碧巌録』にある「薫風自南来」の禅語にも関係します。
この記事では、その由来から「東山水上行」を解説しています。

この記事を読み終えることで、東山水上行とは何か、一通り知っていただけるはずです。

それでは早速見ていきましょう!

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「東山水上行」の現代語訳

「東山水上行」の現代語訳は、書き下し文が「東山、水上行」となり、下のようになります。

東の山が川の上を流れて行く

各語の意味

・東山=東の山

・水上=水の上。川の上

・行=行く

山が川を流れて行くという、ありえない情景を描いたものです。原典から深く読まないと意味がわからない禅語です

「東山水上行」の由来

「東山水上行」の原典は『雲門公録』の以下のお話になります。

昔中国に、雲門という高名な禅僧がいました。

ある僧が雲門禅師に尋ねました。
「悟りの境地とはどういったものでしょうか?」

雲門禅師は答えました。
「東山水上行」
(「東の山が川の上を流れて行く」)

「東山水上行」は、「悟りの境地がどういったものか」という質問への答えとして出た言葉でした。

意味については、この後の「『東山水上行』の意味」の部分で詳しく見ていきます。

「薫風自南来」の禅語との関係

「薫風自南来」の禅語となった原典のエピソードにも「東山水上行」が出てきます。
話としては同様のものですが、確認してみたい方は下の記事をご覧ください。

「東山水上行」の意味

「東山水上行」は、「悟りの境地がどういったものか」という質問への答えでした。
つまり、悟りの境地を表す言葉なのです。

悟りの境地とは

仏教で目指される悟りの境地とは、一つ、一言でいってしまうと「分別の無い境地」です。

「分別」というのは、「物事を分けて考える」ことです。
例えば、好き・嫌いや、楽しい・楽しくない、美味しい・不味い、などなどなんでもあります。

仏教のはじまり・ブッダは、分別があることから苦しみが生まれると考えました。

好きなものが手に入らないことで苦しみ、
好きなものが手に入ると失うことを恐れ苦しみます。

嫌いなことがやってくると苦しみ、
嫌いなことを避けられてもまたやってくるのではと恐れ苦しみます。

同様に分別があるところには同じように苦しみがついて回ります

ということで、ブッダはこうした「分別のない境地」を悟りの境地として目指しました。

この分別に問題を求める姿勢は誰にでも当てはまるものではなく、同じく思う人が分別をなくそうと修行すれば良い、というのがブッダの考えでもありました

仏教の「悟りの境地」というのは、分別をなくした、つまり、物事を分けて考えることが無い境地だということです。

このことがわかると、「東山水上行」の意味もわかります。

悟りの境地を表す「東山水上行」

「東山水上行」の禅語に話を戻します。

「分別」という観点から見ると、「東山」は山ですので、本来「動かない」ものです。

「東山水上行」は「東の山が川の上を流れて行く」という意味でしたので、動かないはずの山が動いています。

ですから、この禅語が示すのはまさに悟りの境地、「分別のない境地」とはこういうものだ、ということなのです。

「東山水上行」の言葉によって悟りの境地を伝えただけかもしれませんし、それにとどまらず、雲門禅師には実際にそのように感じられたのかもとも思います

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「東山水上行」は、そうした禅の世界の奥深さ、神秘さを思わされる禅語です。

まとめ

ということで、「東山水上行」についてまとめると以下のようになります。

・現代語訳は「東の山が川の上を流れて行く」

・由来は『雲門公録』における、悟りの境地を示す言葉として

・分別を超える、悟りの境地がどういうものかを伝える言葉

以上です。

この記事が、東山水上行とは何か、調べている皆様のお役に立ったならば嬉しく思います!

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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