『mame-sadou.com』にようこそ、表千家流の茶道講師・やましたです!
禅語「喫茶去」の意味、現代語訳を、原典のエピソードまで遡り解説した記事です。
茶の湯の掛軸としてよく掛けられる禅語なので、茶道をしている方には目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。
この記事を読み終えることで、喫茶去とは何か、原典のエピソードから日本語訳、意味の取り方・解釈まで、一通り知っていただけるはずです!
では早速見ていきましょう!
「喫茶去」の現代語訳
「喫茶去」の現代語訳は、書き下し文が「茶を喫して去れ」となり、以下のようになります。
「お茶を飲んで去りなさい」
・「喫」=飲む
・「茶」=お茶
・「去」=去る
禅の世界の言葉らしい、相手を叱咤するような言葉です
ですが、現在は、「去」を強調の助詞として解釈し「去る」の意味でとらず、以下のような柔らかい取り方もされています。
「どうぞお茶を飲んでください」
お茶席でも、亭主はこちらのニュアンスで掛けていることも多いです。
「喫茶去」の原典
「喫茶去」の原典は、公案『趙州喫茶去』です。
高名な禅僧・趙州を訪ねて一人の修行僧がやってきました
趙州「ここに来たことがあるか?」
修行僧「初めてです」
趙州「お茶を飲んで去りなさい」
また別の修行僧がやってきました
趙州「ここに来たことがあるか?」
修行僧「あります」
趙州「お茶を飲んで去りなさい」
誰にも同じように言う趙州のことを
不思議に思った寺の管理人が尋ねました
管理人「どうして誰にでも同じように
『お茶を飲んで去れ』と言うのですか?」
趙州「管理人さん!」
趙州「お茶を飲んで去りなさい」
この時に管理人はハッと悟ったそうです
「喫茶去」の意味
「喫茶去」の意味は、公案『趙州喫茶去』を踏まえるとどのように取れるでしょうか?以下で見ていきます。
分け隔てしない趙州の姿
禅の世界をはじめ、仏教の世界で修行する者の重要なテーマとして、「分け隔てすることをなくす」ということがあります。
仏教の世界では、分け隔てをする心から、多くの不幸が生まれてくると考えます。
例えば、好きな事・嫌いな事と分け隔てをするところから
・嫌いな事を避けたいと、恐れが生まれます
・せっかく好きな事を手に入れられても、それを失うことへの恐怖が生まれます
ふつうは、人に対しても、親しい人への思い・初めて会う人への思いでは差があるものです。
ですが、趙州は誰にでも同じように「お茶を飲んで去りなさい」と言います。
そんな趙州の姿には、「分け隔てする心」を乗り越えた姿が描かれているのです。
いつでも、どこでも、誰にでも、同じ心でお茶を点てる
では、そんな趙州の姿から、われわれは何を学べるでしょうか?
何に当てはめても良いでしょうが、お茶席の掛軸を読む際には、やはり茶道に当てはめてみます。
茶道でお点前をするときなど考えてみますと、例えばこんなことがありますよね。
・お茶会で初めてのお客さんたちを前にお点前をするときには、緊張しやすいものです
・逆に、いつものお稽古場で、いつものメンバーに囲まれお点前するときには、少し気が緩むこともあるかもしれません
自分の心の主となることは難しいことです
そんな中、分け隔てする心を乗り越えた趙州の姿を伝える、「喫茶去」のことばは、
「いつでも・どこでも・誰にでも、同じ心でお茶を点てること」を思わせてくれます。
お茶会だからと意識するのでなく、お稽古場だからと気をぬくのでなく。
禅の精神にのっとった茶道というものにおいては、この「喫茶去」の心こそ、目指すべき境地なのだと思います
まとめ
ということで、禅語「喫茶去」についてまとめますと、以下のようになります。
・現代語訳は「お茶を飲んで去りなさい」
・「どうぞお茶を飲んでください」と柔らかく取ることも多い
・原典は「趙州喫茶去」で、分け隔てする心を乗り越えた趙州の姿が描かれている
・そんな「喫茶去」の禅語は、いつでも・どこでも・誰にでも、同じ心でお茶を点てることを伝えてくれる
「特別なことをしようと思わず、いつも通りにお茶を点てることが大切なんだ」
厳しいだけでなく、お茶会前に緊張しているときなど、「喫茶去」の言葉を思い出すと、落ち着かせてくれるような言葉でもあります。
以上です。
この記事が、禅語「喫茶去」について調べている、みなさまのお役に立ったならばうれしく思います!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!