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禅語「柳緑花紅」の意味・解釈を、原典・現代語訳から解説した記事です。
出典は蘇東坡(1037~1101)が詠んだ漢詩で、その中では「柳緑花紅真面目」と詠われました。この言葉の意味は後ほど解説します。
茶の湯の世界では春の季節、4月頃に掛けられることが多く、茶道をしている方には馴染みのある禅語ではないでしょうか。
この記事を読むことで、そんな禅語・柳緑花紅とは何か、一通り知っていただけるはずです!
それでは早速見ていきましょう!
「柳緑花紅」の出典
「柳緑花紅」の出典は蘇東坡の詩であるといわれています
蘇東坡(1037~1101)は、蘇軾(そしょく)の名で知られる高名な政治家でもありました
蘇東坡は、春の景色が目の前に広がるのを見て
「柳緑花紅 真面目」(やなぎはみどり はなはくれない しんめんもく)
と詠いました(『東坡禅喜集』)
「柳緑花紅 真面目」とは現代語ではどうなるでしょうか?次に見ていきます
「柳緑花紅真面目」の現代語訳
「柳緑花紅真面目」の現代語訳については、まず「真面目」は以下のようになります
・真=真実の
・面目=姿
「まじめ」と読みたくなりますが、違うのですね!
ですので、「柳緑花紅 真面目」の現代語訳は次のようになります
「柳は緑であり、花は紅であり、これが本来ありのままの姿である」
見た景色をそのまま言ったような言葉ですが、その解釈を次に見ていきます
「柳緑花紅」の意味
そのものの中にある尊さ
柳はみずみずしい緑の枝を垂らし、風に揺られます
花は蕾を開き、紅い花を咲かせ、香ります
そのものそのままの姿が美しく、その奥には本質的な尊さがあります
これは生命そのものといえ、他のどんなものについても同じことが言えます
柳は紅くなる必要はありませんし、花は緑になる必要はありません
ただそのままの尊さが美しいのです
「柳緑花紅」は、そんなことを伝える言葉です
「柳緑花紅」が教えてくれること
どんな時も自分の中にある尊さ
仕事や家庭など社会生活を営む中では、様々な役割を求められることがあります
「上手くやらねば」とプレッシャーを感じる時もあれば、「失敗してしまった」と落ち込む時もあります
ですが、柳は紅くなれないように、花は緑になれないように
最初から求められた役割を100%こなせることは難しいものですし、自分自身がその役割に染まってしまう必要もありません
柳は緑で、花は紅であるのと同じで、それは当たり前のことです
先ほど、どんなものにもその奥には、本質的な尊さがあるという話をしましたが
自分自身の奥底にもそれはあり、それは生命そのもので、「本来の自分」といえるものです
その「本来の自分」は、何事にも動じることはありません
「柳緑花紅」は、そんな、ともすれば忘れがちな、「本来の自分」を思い出させてくれる言葉なのです
そのままを見ることの大切さ
「柳緑花紅」は、どんなものにも本質的な尊さがあることを教えてくれるのですが
周りの人・ものについて、その尊いそのままの、本質的な姿を正しく見ることができているか
ということを考えさせられもする禅語です
まさに、今・現在、自分は見ることができているだろうか?深く考えさせられます
期待や思い込みなどのレンズを通さず、ありのままの姿を見ること
「柳緑花紅」の禅語は、その大切さに気づかせてくれます
「柳緑花紅」の季節
「柳緑花紅」の掛軸は、茶道の世界では4月頃に掛けられることが多いです。
「柳緑花紅」は、蘇東坡が春の景色を見て詠ったものであることからも、春に掛けるのがぴったりです。
柳の新芽が生え出てくるのは3〜4月頃。
「花」は、蘇東坡がなんの花を見て詠ったかは定かではありませんが、お茶席に掛けられる際には、桜の花や桃の花と取られることが多いです。
桃の花期は桜の花期より少し早くなりますので、掛ける時期によって、どちらの花を見るかは変わってくるかと思います。
まとめ
ということで、禅語「柳緑花紅」についてまとめますと
・原典は、蘇東坡の詩の「柳緑花紅 真面目」
・現代語訳「柳は緑であり、花は紅であり、これが本来ありのままの姿である」
・何ものもが持つ、生命そのものの本質的な尊さ・美しさを伝える言葉
苦しい時・辛い時ほど身にしみて、心をフッと軽くしてくれる禅語で、広く愛されていることもよくわかります
以上です!
この記事が、禅語「柳緑花紅」について調べている人の、お役に立ったならば嬉しく思います
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!