利休七哲とは|メンバーと略歴

歴史
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利休七哲りきゅうしちてつとは、茶道を大成した千利休の高弟のうち七人を選んだものですが、
そのメンバーと略歴、茶の湯エピソードについてまとめた記事です。

史料により異なる利休七哲の選定基準についても触れています。

この記事を読み終えることで、利休七哲とは何か、一通り知っていただけるはずです!

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利休七哲のメンバー

「利休七哲」のメンバーが誰を指すかというのは、実は諸説があります。不動のメンバーもいますが、史料によって異なるメンバーもいます

というのも、「利休七哲」という括りは、千利休存命時に指名されたというわけではなく、最も古い史料でも、千利休没後数十年経っているだろうところに依拠するものだからです

「利休七哲」のメンバー

そんな諸説ある「利休七哲」のメンバーについて、最も重んじられているのが、『江岑夏書』(1662)の以下の構成です

1 蒲生氏郷

2 高山右近

3 細川三斎

4 芝山監物

5 瀬田掃部

6 牧村兵部

7 古田織部

『江岑夏書』の利休七哲は、表千家四代・江岑が、その父・宗旦(利休の孫で、生前の利休を知る最後の世代の一人)から聞いた内容を記したものだからです

他のほとんどの史料はさらに時代が下ります

唯一『江岑夏書』より少し古いと考えられる『茶道四祖伝書』という史料は、利休と縁が遠い人物によるものですし、それでも一人異なるだけです(outo瀬田掃部⇨in前田利長)

その他史料であげられるメンバー

その他の史料で、上のメンバーと入れ替わって挙げられることが多いのは、以下のメンバーです

織田有楽・荒木村重・有馬玄蕃・佐久間不干斎・千道安

これらのメンバーが、上の7人の誰かと入れ替わる形で入ることが多いです

利休七哲の経歴・エピソード

先ほど挙げた、『江岑夏書』に依拠する「利休七哲」のメンバーそれぞれの経歴と茶人としてのエピソードを簡単にまとめていきます

蒲生氏郷

経歴

1556年生まれ。13歳の時、織田信長の人質となりましたが、信長はその聡明さを見抜き、自らの娘と結婚させるほど高く評価されました

その後、信長・秀吉と仕え、武功を挙げ続けていき出世を重ね、最終的には秀吉のもとで陸奥会津92万石の大大名となりました

陸奥会津という土地も戦略的に重要な位置で、それだけ秀吉からの信頼も厚かったと考えられますが、40歳の若さで亡くなります

歌にも優れた文化人で、自らの早世を嘆いた辞世の句を残しています
「かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風」

茶の湯エピソード

千利休切腹後、利休の子・少庵を庇護し、その後も千家復興を嘆願し、果たしました

その際の、少庵を京都に召し出す旨の書状「少庵召し出し状」は、現在も表千家に秘蔵され、初釜にかざられています

高山右近

経歴

1552年生まれ。父の影響で子どもの頃からキリスト教に入信していました。武功を重ね大名となりますが、秀吉の「バテレン追放令」にも棄教を拒否し、大名の地位を奪われます

その後、1614年、徳川家康がキリシタン禁教令を出すに及び、ルソンに追放され、翌年病死しました

茶の湯エピソード

利休の子・千少庵の茶会に行った際、少庵の子・宗旦に出会っています。

その時の右近の様子を、宗旦は「手が震え、顔色もかわっているように見えた」と伝えています。(『江岑夏書』)

戦場での修羅場も経験してきながら、お茶会の前に緊張するほど、茶の湯というものに対し、真摯に向き合っていた人物であったことを示すエピソードです。

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細川三斎

経歴

1563年生まれ。武将としては細川忠興ただおきとして知られています。妻は明智光秀の娘・玉(ガラシャ)です

関ヶ原の戦いの際の、ガラシャ夫人の悲劇的な出来事もよく知られていますね

信長・秀吉・家康の下で武功を立て続け、最終的には肥後熊本54万石の大名となります

幼い頃から能楽に出演し、また、平穏な時には公家と交流し、和歌・連歌の腕も磨いていた文化人でもありました

茶の湯エピソード

千利休の深い信奉者として知られていて、とにかく利休の行いを忠実に守ることに重きを置いた人物でした

そのため、領地の熊本藩で抱えた茶道役に「利休のやり方を全く変えないように」と命じていました。(=茶道流派「肥後古流」の始まり)

さらに、利休が京都から追放され堺の屋敷に送られる際、利休に縁ある諸大名が見送りをしない中、唯一見送りに行ったのが、この細川三斎と古田織部でした

関係する流派は領地の「肥後古流」だけでなく、細川三斎を祖とする「三斎流」という流派もあります

芝山監物

経歴

生没年不詳。信長に仕え、その死後は秀吉に仕え、馬廻衆うままわりしゅうの一員として活躍しました。また、茶人として秀吉の御伽衆おとぎしゅうの一人にも加えられていました

馬廻衆=騎馬の武士で、大将の馬の周囲(廻り)に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられました

御伽衆=将軍や大名の側近に侍して相手をする職の事です

茶の湯エピソード

現在確認されている利休の書状の中では、監物宛のものが最も多いことから、利休との深い関係性がうかがえます

また、「芝山丸壷」「芝山緞子」「芝山間道」「芝山形手水鉢」など、自らの名前を残す道具も多く、茶の湯巧者であったことがわかります

瀬田掃部

経歴

生年不詳。秀吉に仕えた武将です。後に秀吉の甥・秀次に近づき、1595年、秀次の粛清に連座し、死刑に処せられたとされています

茶の湯エピソード

茶杓削りの名手として知られ、利休型の枠にもはまらない、独創的な茶杓を残しています

また、利休が「この絵を見ないと一人前の茶人と言えない」とした、松屋の徐煕筆「鷺の絵」を、古田織部と共に見学に行った記録が残されています

利休の下で茶の湯を学んでいた姿が浮かぶエピソードです

牧村兵部

経歴

1545年生まれ。織田信長に仕えた後、秀吉に仕え、馬廻衆の一人として活躍し、後に2万6千石を領する大名となりました。1593年、文禄の役の中、病没しました

茶の湯エピソード

1580年、牧村兵部が茶会において「ユカミ(ゆがみ)茶碗」を使ったという記録があります

歪み茶碗というと、へうげもの・古田織部の沓茶碗が思い起こされますが、それより断然前のことであり、新たな創意を生み出す力を持った優れた茶人だったようです

古田織部

経歴

1544年生まれ。父と共に信長に仕え、その後秀吉に仕え、馬廻衆として活躍し、3万5千石の大名となりました。

秀吉の死後、その所領を子に譲り、自らは父の遺した3千石を領し、茶事に没頭する生活に入りました

関ヶ原の戦いの際には家康方につき、その働きを認められ1万石の大名に復帰しましたが、1615年、大坂の陣において豊臣方に内通したとして切腹させられました

茶の湯エピソード

千利休亡き後、天下一の宗匠として、将軍・徳川秀忠への茶の指南も行いました

好んだ一部の破格な茶陶に注目が集まり、「へうげもの」(おどけた)美意識の持ち主として評価されることが多いですが

実際は、それだけで随一の茶人という評価がされるわけはなく、周囲を納得させる茶道具の目利きでありました

また、「へうげもの」という表現に代表されるような茶道具、さらに、武家の茶の湯の式法も成立させるといった、時代に合わせた創意工夫を行う力も持っていました

千利休も当時としては創意工夫に優れた改革者でしたから、その精神を最もよく引き継いだ人物といえるでしょう

利休のことを深く尊敬し、利休が京都を追放される際には、細川三斎とただ二人見送りに行きました

利休は切腹前、最後の茶会に臨むに茶杓を削り、茶会を終えた後その茶杓を織部に与えました。織部は、その茶杓を、位牌代わりに常に懐に入れていたそうです

この織部所持の利休作の茶杓はなみだという銘で現存します。この銘からも、いかに利休を慕っていたかが表れています

利休七哲の選定基準

「利休七哲」の選定基準としては、茶の湯巧者であったということに加え、以上見てきたように、当時活躍した戦国大名・武将である、という条件があります

ですから、利休の子の道安・少庵などは入っていませんし(道安は例外的に後世の史料で入っていますが)、山上宗二などの高弟も入っていません

まとめ

ということで、「利休七哲」についてまとめますと

・「利休七哲」のメンバーは史料によって違いがある

・最も重んじられている構成は、「蒲生氏郷・高山右近・細川三斎・芝山監物・瀬田掃部・牧村兵部・古田織部」

・「利休七哲」の選定基準は、①茶人として優れていること②戦国武将として優れていること

戦国大名・武将として有名な人物も「利休七哲」に数えられていて、千利休の茶の湯が持った影響力の大きさを感じますし

また、そうした人物たちがのめり込んだ、茶の湯というものに対する当時の熱気というものにも思いがいきますね

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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