【裏千家】今日庵とは|由来と意味

歴史
裏千家公式Facebookより
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裏千家の今日庵という言葉について、意味とその由来を解説した記事です。

今日庵は裏千家に関係する言葉で、茶室や流派組織そのものを指す言葉なのですが、
その由来は、裏千家流の始まりに関わるもので、非常に重要な言葉なのです。

この記事を読み終えることで、そんな裏千家の根幹に関わる今日庵とは何か、一通り知っていただけるはずです。

それでは早速見ていきましょう!

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「今日庵」の意味するところ

「今日庵」は「こんにちあん」と読み、裏千家が所持する茶室、また、裏千家流の組織そのものを意味します。

茶室「今日庵」

裏千家家元の邸内にあるお茶室の一つが、「今日庵」です。

あとで解説しますが、その由来から裏千家流を象徴するお茶室です。

上の画像が茶室「今日庵」の内部です。

三代・宗旦が作ったこの茶室の特徴は、何といっても、一畳台目という極小の空間にあります。

台目というのは、長さを「4分の3」畳とした、台目畳のことです。
つまり、一畳台目というのは、「一畳+4分の3畳」の広さをいいます。
(今日庵は向う板を入れて2畳の広さとなります)

お点前をする点前座と客が座る客座が一畳ずつで、床の間もありませんし、最小の茶室といえます。

この極小の空間に茶室の機能を詰め込んだのは、さすが宗旦(侘びに徹した所から「乞食宗旦」と呼ばれました)といえるところで、
この茶室「今日庵」は侘びの極到と評されます。

宗旦時代の茶室は1788年天明の大火により焼失し、現存するものは元の形にならいその直後に再建されたものです。

裏千家の組織

「今日庵」の語は、裏千家組織そのものの別称としても用いられます。

それはやはり、茶室今日庵がその由来から、裏千家を象徴する存在だからです。

今日庵の由来

「今日庵」は裏千家を象徴する号なのですが、その理由は茶室「今日庵」の重要性によります。

茶室「今日庵」の始まり

茶室「今日庵」の始まりは、三代・宗旦の時代にまで遡ります。

利休の孫である三代・宗旦は、1646年、三男・江岑(表千家四代)に家督と共に、それまで使っていた茶室・屋敷を譲り、隠居しました。

それまでの敷地の裏手を隠居所とし、そこに建てた茶室が「今日庵」でした。

この隠居先には、四男・宗室(裏千家四代)を連れて行っており、宗室は後に、この茶室を含む隠居所を継承しました。

こうした経緯から、茶室「今日庵」を継承することは、三代・宗旦から裏千家四代・宗室が引き継いだ、千利休以来の茶の湯の精神が、確かに裏千家流に存在することを象徴しているのです。

茶室「今日庵」が裏千家の象徴として扱われるのは、こうした由来からによります。

「今日庵」の号の由来

宗旦が建てたこの茶室の席開きの日、禅の師匠である清巌和尚を招いていたのですが、時刻になっても来ませんでした。

そのため宗旦は、「明日おいでください」との伝言を残し、別の用事に出かけました。

宗旦が不在の間に清巌和尚がやってきて、その伝言を聞き、茶室の腰張りに「懈怠比丘不期明日」と書きつけて帰りました。

腰張りというのは、茶室の壁や人の衣服が汚れないように、お茶室内の壁の低い位置に貼る紙のことです

「懈怠の比丘、明日を期せず」と読み、意味は「怠け者の私は、明日の約束はできません」となります。

これを見た宗旦は、少し先のこともわからないこの世で、明日の約束を求めたこと、今日という日を疎かにしていたことに気づかされました。

このことから、宗旦はこの茶室を、「今日庵」と名付けたのです。

まとめ

ということで、「今日庵」についてまとめますと、以下のようになります。

「今日庵」は、裏千家家元にあるお茶室と、裏千家流の組織そのものを表す

茶室「今日庵」の始まりは、三代・宗旦が隠居所に建てた所からで、四代・宗室以後代々、裏千家で継承している

「今日庵」の号は、宗旦の禅の師匠からの「懈怠比丘不期明日」という言葉を受けてのもの

「今日庵」という言葉の由来は、茶道裏千家の始まりにまで遡り、裏千家流の起源にも深く関わりがあります。

以上です!

この記事がみなさまのお役に立ったなら嬉しく思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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