【茶道の歴史】茶道はどのように始まったのか?初期茶の湯の姿もーわかりやすく解説します

歴史
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初めまして。茶道講師の山下晃輝と申します。

今回の記事では、茶道のはじまりについて、

・茶道がどのように始まったか

・創始者・珠光の行った茶道

という点を踏まえ、最新の研究による茶道の歴史を、できるだけわかりやすく、簡潔に解説していきます。

茶道の歴史については、従来、伝説・伝承がそのまま事実として伝えられる、という状態が続いてきたのですが、現在、科学的な研究が進み、より正確な姿が明らかになってきています。

この記事を読み終えたら、茶道のはじまりについて、最新の研究によるより正確な歴史を、把握していただけるはずです。

少し長くなりますが、よろしくお願いします

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茶道以前の抹茶

 抹茶は茶道以前からあった

現在では、抹茶を飲む場として茶道が第一に思われるため、茶道と抹茶が同時に伝わったと思われがちですが、抹茶は、茶道が始まるずっと前から伝わっていました。

11世紀末に伝わった茶筅が見つかっていて、少なくともこの頃には日本でも抹茶が飲まれ始めていたと考えられています。

茶道の最初、茶の湯がはじまったのが確認されるのは1484年が最も古いので、その400年程前にはすでに抹茶は日本で飲まれていたことになります。

 抹茶は広く社会に浸透していた

では、茶道以前、日本で抹茶がどのように飲まれていたか、以下のようなものがあります。

寺院での僧による喫茶

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(建仁寺「四頭茶会」の様子)

 茶屋(寺社門前で参詣客に茶を売る屋台)

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(『地蔵菩薩霊験記絵』南北朝期)

 荷い茶(茶道具一式を担いだ行商人の茶)

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(狩野秀頼『観楓図屏風』16世紀)

 闘茶(何服化の茶を飲みその異動を飲み当て商品を得る賭け事)

 会所の茶(客を招く施設会所において点て出しの茶をふるまうもの)

 町民による自宅での喫茶

「茶屋」は無料1文(今の100円~200円)で、町民も気軽に飲めるものでした。

このように、抹茶の伝来から茶の湯のはじまりまでの400年程の間に、上流階級だけでなく町民にまで、広く抹茶の飲用は広まっていました。

そうした状況の中から、茶道は生まれました。

茶道の起源

 創始者“珠光”の経歴

茶道の創始者は、珠光(しゅこう)という人物です。

当時のことですので詳しい記録は残っていませんが、彼の経歴の確実な経歴は以下のものになります。

1423年、奈良に検校けんぎょうの子として生まれる

検校とは、盲官の最高位の名称。音楽や物語を担当したそうです。

11歳の時、奈良の浄土宗系称名寺にて出家

十代のうちに寺を出る

1502年没

十代のうちに寺を出たのちは、寺に戻ることも還俗することもなく、一生を市井の僧として過ごしました。

旧説では、還俗して商人として成功したとされていましたが、そのことを示す証拠がなく、現在は否定されています。

ですので、姓をつけて「村田珠光」と言われたりもしてきましたが、僧なので姓はつけず「珠光」が正しいです。

 茶道の起源

先程の茶道以前の抹茶の章で、すでに町民の間でも自宅での喫茶がされていたと書きましたが、

茶道がはじまる直前、自宅での抹茶の飲用の様子を伝えるものに、「おようのあま」絵巻があります。

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押し入れの中に茶道具一式があり、それを使って客に抹茶を振舞いました。

ここに描かれている僧は、浄土宗系の遁世僧(世俗を離れひとり暮らす僧)で、茶道の創始者・珠光も同じく浄土宗の遁世僧でした。

遁世僧とは、世俗を離れひとり暮らす僧のことです

ですから、茶道創始前から珠光も「おようのあま」絵巻の僧と同様に、こうした押し入れの茶道具を使って客に抹茶を振舞っていたことでしょう。

そうしたことをする中で、茶道具を押し入れから座敷に出すようになり、茶の湯の美意識に適う道具を集め、お茶会の形式を整えることで、茶の湯、茶道がはじまっていったと考えられます。

こうしたことから茶道の起源は、市井の人々の喫茶文化にあったといえます。

 珠光の茶道具

珠光の所持した道具として名物とされるものは、『清玩名物記』により1555年時点では、「珠光茶碗」(下の画像のような茶碗)のみでした。
(※後の時代、珠光の名が上がっていくと、珠光所持とされる道具が増えていきます)

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珠光茶碗は日常雑器としてつくられた器で、店先に並んでいるようなものでした。その中から茶道に合うものを珠光は選び、お茶碗として見立てて使いました。

珠光は、すでに世間で評価されている茶道具を集めるのでなく(一生を僧として過ごしたので、そのような財力もなかったでしょう)、この珠光茶碗に代表されるように、日常雑器のような器を見立てて茶道具として使っていきました。

そして、その見立ての基準、茶道の軸となったのは美意識でした。

 珠光の美意識

珠光の美意識を伝えるものとして、以下のようなものがあります。

『禅鳳雑談』1512年

「珠光の物語とて 月も雲間のなきは嫌にて候 これ面白く候」

『古市播磨法師宛一紙』

(道具の美を表現する言葉として)「冷え枯る」

『古市播磨法師宛一紙』は、珠光から弟子に当てた手紙とされる書状です

これらの美意識は、当時のの世界の美意識と共通することが指摘されていて、珠光はそうした、日本で長く洗練されてきた美意識を、茶道の軸に据えようとしていたと考えられます。

こうした「冷え枯る」という美意識は、後の茶道の「侘び寂び」と称される美意識と内容的には重なる物でした。

 まとめ

従来の旧説

珠光は還俗して商人として成功し、将軍家に仕える能阿弥から学ぶことで、茶道を創始した。
そのため、珠光のころの茶道は豪華なもので、まだ「侘び寂び」といったものではなかった。

従来の旧説では上のように考えられていたのが、現在の通説では以下のようになっています。

現在の通説

珠光は一生をとして過ごし、抹茶が広まった社会に暮らすなか、お茶会という形式を確立させることで茶道を創始した。
珠光が茶道の軸に置いたのは、歌の世界で深く洗練された「冷え枯る」美意識で、後の「侘び寂び」と同様のものだった。

ほんとうに大きく変わりました。

以前は珠光⇨武野紹鴎⇨千利休とだんだんと「侘び寂び」の美意識が深まっていったと説明されてきましたが、

私の学生時代には実際こうした説明がされていました

珠光の茶道は「冷え枯る」美意識を軸にしたものでした。

ですから、現代では、後の時代、千利休が侘び寂びの茶道をおし進めたのは、むしろ、珠光の茶道への原点回帰という意味が強かったのではないかといわれています。

また詳しくは後の機会に触れたいと思います。

この記事はこの辺でおしまいにいたします。

茶道の歴史の科学的な検証は、茶道というものをこれから先の時代に残していくのに必要なこと。研究を進めてくださる研究者のみなさまを尊敬いたします

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