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表千家の歴代家元の名前(読み方)と略歴、生没年、家元在位期間をまとめました!
数ある茶道の流派の一つが表千家です。
表千家流の歴史は初代千利休から始まり、現家元の15代猶有斎宗匠と続いています。
お茶会などに行くと、歴代の家元の直筆のお軸が飾られていたり、書付をされた道具・好んだ道具が使われていたり、ということがあります。
ですので、歴代の家元の名前と時代、どんなことをした家元かがわかると、お茶会もより一層楽しくなるはずです!
では早速見ていきましょう!
表千家・歴代家元
初代・利休
生没年1522年〜1591年。利休は晩年の号で、田中宗易として活動していました
千利休・千家の「千」は、商売の屋号だったのではと考えられています
裕福でない商人の家に生まれましたが、利休の時代に有数の商家に発展しました
1400年代末に始まった茶の湯は、初期には素朴なものでしたが、その後豪商たちが中心となり、それまでより豪華・派手なものになっていました
利休はそうしたあり方に批判的で、「侘び寂び」の美意識・洗練された精神性を茶の湯に求め、新たな工夫も多く取り入れ、現在に続く「茶道」の流れを作りました
高台まで黒く表情を消した「楽茶碗」や、茶室としてイメージされる「にじり口」がついたような狭い茶室などは、利休の時代に作られたものです
1591年、秀吉に命じられ自刃しました
二代・少庵
しょうあん。生没年1546年〜1614年
利休後妻・宗恩の連れ子でした
利休自刃後、会津の蒲生氏郷の元に蟄居を命じられていましたが、徳川家康・蒲生氏郷のとりなしにより、秀吉の許しを得て京都に戻ることができました
この時の少庵宛の書状が「少庵召出状」と言って、家元で代々大切に伝えられてきました
表千家にとって大切な「少庵召出状」は、2年に一度、家元の初釜で掛けられています
以後、少庵は京都にて、千家再興に取り掛かりました
三代・元伯宗旦
げんぱくそうたん。生没年1578年〜1658年
少庵の子
利休の政治の世界に翻弄された悲惨な最期を目撃したからか、多くの大名家からの茶頭としての士官の誘いを断り続けました
さらに、茶風についても、祖父利休の侘び茶をさらに徹底したもので、乞食修行をしているように清貧であることから「乞食宗旦」とも呼ばれました
しかし、子たちは士官させ、家督を譲った三男・江岑宗左は紀州徳川家、隠居先に連れて行った四男・仙叟宗室は加賀藩前田家、次男・翁宗守を高松松平家に仕え
それぞれ、表千家・裏千家・武者小路千家の始まりとなりました
四代・江岑宗左(逢源斎)
こうしんそうさ。生没年1613年〜1672年・家元在位1646年〜1672年
父・元伯はどこからの仕官の求めにも応じませんでしたが、江岑の代から紀州徳川家に仕え出しました(1642年)
江岑は、紀州徳川家に仕え出した頃から「宗左」を名乗り、以降表千家の家元は代々、「宗左」名を襲名しています
出仕から4年後(1646年)、宗旦から家督と共に茶室「不審庵」を譲られ、ここに表千家が始まりました
紀州在勤中に余った材木で細工素人である若衆に作らせた、「三木町棚」がよく知られ、また、茶道具の伝来・扱いや点前の心得を書き残した『江岑夏書』が残っています
五代・随流斎
ずいりゅうさい。生没年1650年〜1691年。家元在位1672年〜1691年
久田家に嫁いだ宗旦の娘・くれの子で、江岑の養子に迎えられました。随流斎は「宗佐」を名乗ったため、「人偏そうさ」と呼ばれています
茶風は古風を大切にしたとされ、道具の取り合わせや著名な道具の来歴・先師の故事など書き残した『随流斎延紙ノ書』が家元に伝来しています
六代・覚々斎
かくかくさい。生没年1678年〜1730年。家元在位1696年〜1730年
随流斎の兄・久田宗全の長男で、12歳の頃千家に養子として迎えられ、随流斎の死後、18歳で正式に表千家家元となりました
後の八代将軍・吉宗が紀州徳川家にいる時代、茶頭として出仕していたのが覚々斎にあたり、将軍吉宗から拝領の茶碗「唐津桑原茶碗」も伝来しています
現在でも使われる、「老松茶器」は覚々斎が作らせたものです
七代・如心斎(天然宗左)
じょしんさい(てんねんそうさ)。生没年1705年〜1751年。家元在位1730年〜1751年
覚々斎の長男ではじめ宗員、のち宗左となり家元を継ぎました
実弟で裏千家八代の一燈宗室、高弟の川上不白らとともに「七事式」を制定しました(七事式については↓の記事で解説しています)
家元を頂点に各地に師範が控えるという、家元制度の整備も行い、広く表千家流茶道を伝える形をつくりました
町人に茶道が流行し、茶道人口が増えるという時代状況に合わせてのことで、古きを大切にしつつ新しきを加えることができる人物だったといえます
表千家の中興(利休以来の隆盛を招いたとして)とされ、命日にちなみ家元では毎年9月13日、如心斎を偲ぶ「天然忌」が催されています
八代・啐啄斎
そったくさい。生没年1744年〜1808年。家元在位1751年〜1803年
8歳で家元を継ぐことになったため、如心斎の実弟・裏千家八代一燈や川上不白ら高弟たちに学びました
四十代半ばで京都の大部分を失った大火にあい、伝来道具を残してすべてを失いましたが、翌年には現存の建物に近い姿になって再建されました
再建した建物に一畳台目という極小=侘びの極致を示す茶室を築き、好みました
60歳で隠居して宗旦を名乗り、以後、表千家では宗旦を隠居名とする習わしとなりました
九代・了々斎
りょうりょうさい。生没年1775年〜1825年。家元在位1803年〜1825年
紀州徳川家では茶に精通した治宝公の時代に仕え、手造りの茶碗や自作の茶杓なども多く残しています
了々斎の時代には、茶事の仕方やお点前の様式など、ほとんど今日の形に落ち着いたといわれています
十代・吸江斎
きゅうこうさい。生没年1818年〜1860年。家元在位
了々斎の甥で、8歳で養子に迎えられ、翌年、表千家十代を継ぎました。10歳の頃から紀州徳川家に出仕し、19歳の時、藩主・治宝公より台子真点前の皆伝を授かりました
幼く家元となった吸江歳には、幼年書きと言われる無心な筆致の一行や絵賛があり、茶人の間で親しまれています
好みの道具としては、溜二重棚などが伝わっています
十一代・碌々斎
ろくろくさい。生没年1837年〜1910年。家元在位1856年〜1892年
吸江斎の嫡男で、十一代を継ぎましたが、間もなく明治維新を迎え、紀州徳川家への出仕もなくなり、新時代への移行により茶道への一般の関心も薄れ、茶道にとって非常に困難な時代でした
明治13年には北野天満宮で献茶を行い、以後献茶の行事は今日まで引き続いています
また、各地へ出向いての茶道の普及にも尽力し、時代が進むにつれ近代数寄者の登場などもあり次第に復興し始め、1887年には、京都御所にて明治天皇にお茶を献じました
十二代・惺斎
せいさい。生没年1863年〜1937年。家元在位1892年〜1937年
碌々斎の子。隠居した父と共に活動した時間も長く、景気の好転もあり、また、女性の教養の一環としても受け入れられ
明治維新後の困難な時代を乗り越え、表千家も隆盛となりました
惺斎は好みの道具がもっとも多く、特に鎌倉彫・山中塗・萩焼・膳所焼・薩摩焼・瀬戸焼など各地の工芸にも多く、そうした国産の焼き物の育成にもつながりました
十三代・即中斎
そくちゅうさい。生没年1901年〜1979年。家元在位1937年〜1979年
惺斎の次男。1936年兄の逝去、1937年父・惺斎の逝去と続き、この年十三代家元を継ぐことになりました
明治維新後の困難な時代を乗り越えた後でしたが、第二次世界大戦へと向かう戦争の時代の中、また困難な時代でした
そんな中、財団法人として家元を組織化し、また、同門会を組織し、海外含め各地に支部を起くことで、各地での茶道活動が盛んになっていきました
十四代・而妙斎
じみょうさい。生年1938年。家元在位1980年〜2018年
即中斎の長男。即中斎の逝去により表千家十四代を継ぎました
1990年には利休400年忌を迎え、法要をいとなみ茶事を催しました
2018年隠居し、現在は宗旦を名乗っています
十五代・猶有斎
ゆうゆうさい。生年1970年。家元在位2018年〜
而妙斎の長男。而妙斎の隠居に伴い、表千家十五代を継ぎました
芸術学博士。不審庵文庫長として、家元に伝来してきた茶書の研究・出版に力を入れてきました
まとめ
ということで、表千家歴代家元はこちらになります
初代・利休(りきゅう)
二代・少庵(しょうあん)
三代・宗旦(そうたん)
四代・江岑(こうしん)
五代・随流斎(ずいりゅうさい)
六代・覚々斎(かくかくさい)
七代・如心斎(じょしんさい)
八代・啐啄斎(そったくさい)
九代・了々斎(りょうりょうさい)
十代・吸江斎(きゅうこうさい)
十一代・碌々斎(ろくろくさい)
十二代・惺斎(せいさい)
十三代・即中斎(そくちゅうさい)
十四代・而妙斎(じみょうさい)
十五代・猶有斎(ゆうゆうさい)
いきなりすべての家元を覚えるのは難しいと思うので、お茶会などで見かけるのは、やはり比較的時代が新しい家元、惺斎以降が多いので
十二代以降の家元のお名前だけでも覚えておけば、お役に立つかと思います!
以上です!
この記事が、少しでもみなさまのお役に立ったならば嬉しく思います
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!